เข้าสู่ระบบ押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。
「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」
朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。
壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。
「いない……」
奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。
「俺が入る」
朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。
壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ直してセンサーの前へ手をかざすと、数秒後、先ほどと同じ掠れた女の声が流れた。
『出して』
奈々香が目を閉じ、大きく息を吐いた。
「やっぱり仕掛けだ」
その言葉へ縋るように、もう一度繰り返す。朔は安堵を促すことも否定することもせず、音声ファイルが複数登録されていると説明した。「開けないで」「見つかる」「人形が来る」という声も同じ機器から順番に流せるよう設定されており、人が押し入れへ近づいたときだけ再生される仕組みだった。さっきの会話は返答ではなく、あらかじめ選ばれた音声が偶然こちらの言葉へ重なった可能性がある。
しかし、朔が次に取り出したものを見て、奈々香の表情から安堵が消えた。親指ほどのレンズを持つ小型カメラで、薄い木板の穴から二〇三号室を撮影できる角度へ固定されていた。レンズの向きは和室の中央と、夜に布団を敷く位置を正面から捉えている。過去の住人が気づかなければ、着替えも睡眠も、押し入れの奥から見続けられたことになる。
「盗撮じゃない」
悠斗が険しい顔で機器を見た。
「こんなの、住居侵入まで絡む。管理会社が知ってたら大問題だ」
「知らなかったと思ってるのか?」
蓮司の声が冷たく落ちた。
悠斗が顔を上げる。
「また俺の会社のせいにするのか」
「十五年で七人消えて、壁から声がすると何度も相談が入っている。壁を一度も調べなかったと言うなら、管理会社として無能だったか、調べた結果を隠したかのどちらかだ」
「俺は担当じゃないって何回言わせるんだ。過去の社員が何をしたかまで俺に分かるわけないだろ」
「分からないことが多すぎるな。七刻女学校の隠し通路も、常世荘の管理履歴も」
悠斗の表情が硬くなり、一歩蓮司へ近づいた。美月が二人の間へ視線を走らせたが、止める前に朔がカメラの側面へ光を当てた。
「これを見て」
刻まれていたメーカー名に、澪は見覚えがあった。七刻女学校の管理通路と監視室で見つけたカメラ群と同じメーカーだった。型式は違うが発売時期は近く、固定具や配線のまとめ方まで似ている。朔は製造番号を撮影し、同一人物と断定はできないと前置きしたうえで、同じ人間か同じ設備業者が設置した可能性はあると告げた。
朔はスピーカーの保存領域も確認した。登録されている音声には作成日時が残っていないものが多かったが、声質は一人ではなく、少なくとも三人の女性から切り取ったものに聞こえた。「出して」は年齢の若い女、「見つかる」はもっと低い声、「人形が来る」は子どもに近い。奈々香はそれを聞き比べるうちに、さっき壁の向こうで会話が成立していると思った理由が分かったらしく、唇を噛んだ。誰かが人間の反応を想定し、返事に聞こえる順番で音声を組み合わせている。七刻女学校の進行表と同じ発想だった。
小型カメラには記録媒体が入っていなかった。代わりに無線送信用の部品があり、映像を別の場所へ直接送る構造になっている。朔が壁内部の配線を辿ると、二〇二号室側へ向かう途中で一本だけ新しい中継器へつながり、その外装には工具で削った痕があった。誰かが設置後に製造番号を消そうとしたらしい。蓮司はその位置を写真に残し、過去の改修記録と照合すると告げた。
澪は空洞の中へ光を向けたまま、十五年前から消えている七人の女を考えた。新しい監視機器が失踪の起点ではないのなら、誰かはすでに存在していた怪談や異常を利用し、その上へ新しい仕掛けを重ねたことになる。七刻女学校で、人間が作った罠の間へ説明不能な現象が混じったのと同じだった。人間が怪異を真似しているのか、怪異が人間の装置を借りているのか、その境目がまた見えなくなっていた。
七刻女学校を数か月かけて改造し、六人の生活を監視していた者。その人物が常世荘にも触れているなら、二つの場所は澄花の過去だけでつながっているのではない。誰かが意図的に、同じ監視の仕組みを両方へ持ち込んでいる。けれど常世荘で最初の女性が消えたのは十五年前で、比較的新しいこの機器だけでは七人の失踪すべてを説明できなかった。
日が落ちるまでに、六人は壁内部と二〇三号室を可能な限り調べた。空洞は二〇二号室との境まで続いているが、途中を柱と配管に塞がれ、人が自由に行き来できる通路にはなっていない。盗撮用カメラの配線だけが隣室方向へ伸びていたため、蓮司は二〇二号室を外側からの監視拠点として借り、夜間はそこで記録を取ることにした。
午後十一時を過ぎるころ、二〇三号室には五人分の荷物と簡易寝具が置かれた。朔と悠斗は台所側の六畳間、澪、美月、奈々香は押し入れのある奥の和室で休むことにする。部屋の間の襖は開けたままにし、玄関と窓には朔が開閉センサーを貼り、押し入れの空洞へも別のカメラを設置した。蓮司は二〇二号室から壁内部の配線と外廊下を監視し、異常があればすぐ二〇三へ入れる位置を取った。
「これなら、誰かが入れば必ず残る」
悠斗がそう言ったが、奈々香は押し入れから目を逸らさなかった。
「残ったあとに何が起きるかは別だけどね」
美月はそれ以上話させず、休めるうちに身体を横にするよう促した。昨夜からまともに眠っておらず、奈々香は数分もしないうちに浅い寝息を立て始める。美月も布団の上で横向きになり、澪は二人の間に挟まれながら、開け放した押し入れの黒い奥を見つめていた。
寝る前、朔は各自の端末時刻を合わせ、午前零時を境に十五分ごとに記録が残る設定を入れた。悠斗は玄関の内側へ椅子を置き、少しでも扉が動けば倒れるよう位置を調整する。美月は非常用のライトと救急用品を枕元へ置き、奈々香には濡れたままの耳を触らないよう念を押した。澪もスマートフォンを充電器へつなぎ、赤い組紐の入った袋を手帳と一緒に鞄へしまった。
押し入れの奥には、朔が新しく置いたカメラの赤い灯りが一つだけ浮いていた。外したスピーカーと盗撮用カメラは透明な袋へ封じ、部屋の隅へ置いてある。つまり、壁の向こうから声が聞こえても、少なくとも昼間見つけた機器からではない。そう確認したにもかかわらず、照明を落としたあと、澪には断熱材の向こうで誰かがゆっくり寝返りを打ったような音が何度か聞こえた。
人感センサーのスピーカーは外した。盗撮カメラも電源を抜き、透明な袋へ封じた。代わりに朔の監視カメラが壁の奥へ赤い表示灯を向けている。それでも暗闇の向こうから、こちらと同じ速さで誰かが呼吸しているような気がした。
いつ眠ったのか、澪には分からなかった。
畳を濡れた布で擦るような小さな音で目を覚ましたとき、部屋は完全に暗かった。枕元のスマートフォンを点けると、午前一時十三分。非常灯のような画面の明かりで周囲を見ると、美月は背を向けて眠り、奈々香も毛布へ身体を丸めたまま動かない。隣の六畳間から朔や悠斗の声は聞こえず、二〇二号室の蓮司から連絡も来ていなかった。
澪は上半身を起こした。
押し入れが、少し閉じていた。
眠る前には全開だった。奥の空洞をカメラで監視するため、襖へ触れないよう全員で確認した。それが今は、人の顔一つ覗かせられるほどの隙間だけを残して閉まっている。
「朔……?」
小さく呼んだが、隣室から返事はない。
美月を起こそうと手を伸ばしかけたとき、押し入れの中で何かが擦れた。ごく弱い音だった。誰かが膝を引きずり、息を潜めて奥へ下がったように聞こえた。
澪は立ち上がった。畳へ下ろした素足が冷え、寝起きの身体がわずかにふらつく。押し入れへ近づくたび、八年前の理科準備室で聞いた爪の音と、昨夜の七刻女学校で見た濡れた上履きの跡が頭の中へ重なった。
襖へ指を掛ける。
ゆっくり開く。
中には誰もいなかった。
外した奥板の向こうには黒い壁内空間があり、設置した監視用カメラの赤い表示灯が点いている。配管も断熱材も昼間と変わらず、誰かが身体を入れた痕跡も見えない。
澪は息を吐きかけた。
そのとき、足裏へ冷たいものが触れた。
畳へ目を落とす。
丸い水滴。
その先に、踵と五本の指を持つ濡れ跡があった。
裸足の足跡だった。
押し入れの中から始まり、和室へ出ている。女性か子どものような小さな足で、一歩ずつ、澪たちの布団へ向かって続いていた。
澪の呼吸が浅くなる。
一歩。
もう一歩。
美月の布団の脇を通り過ぎる。
奈々香の足元には向かわない。
真っ直ぐ澪の寝ていた場所へ。
最後の二つは、枕の横に並んでいた。
誰かがそこへ立ち、眠っている澪の顔を見下ろしていた位置だった。
スマートフォンが震えた。
暗い室内で画面だけが白く灯る。
新しい画像が一枚届いていた。
差出人は、椎名澄花。
澪の指は冷たくなり、何度か画面を滑ったあとでようやく画像を開いた。
眠っている自分が映っていた。
横向きに丸まり、頬へ髪をかけ、枕元へスマートフォンを置いている。奥には美月と奈々香の身体も見える。誰かが、ついさっきまで三人の寝顔を見ていた。
撮影時刻。
午前一時十二分。
一分前。
澪は息を止めたまま、写真の情報欄を開いた。
位置情報は常世荘二〇三号室。
さらに端末内部の撮影位置を示す記録が残っている。
和室。
押し入れ内部。
写真を拡大すると、眠る澪の髪のすぐ上、枕と畳の境目に細長い影が写っていた。人の指にも、濡れた髪の先にも見える。撮影者の身体は画角へ入っていないが、カメラ位置は床から一メートルもない。誰かが押し入れの中で身を屈め、襖の隙間から澪へレンズを向けなければ撮れない高さだった。
澪は反射的に美月を起こそうと振り返った。そのとき、さっきまで規則正しかった奈々香の寝息が止まっていることに気づく。暗闇の中で二人の身体は動かない。呼吸を確認しようと一歩戻りかけた瞬間、押し入れの奥から濡れた布が柱へ擦れる音がした。
澪はゆっくり顔を上げた。
押し入れの奥で、監視用カメラの赤い表示灯が消えた。
次の瞬間。
真っ暗になった壁の中から、女が息を吸った。
澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。「返す場所は、ここじゃない」 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。「ここも壁が厚い」 蓮司が計測器を当てた。 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載され
藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。「人形の話はしないの?」 奈々香が低い声で訊いた。 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃え
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」 朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。 壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。「いない……」 奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。「俺が入る」 朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。 壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ
夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。 黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。「写真より、ずっと普通だね」 奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」 蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」「七日間は泊まらない?」 奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。「要求した相手が人間なら、従う理由はない」「七刻女学校でも、それで済まなかった」 悠斗が低く返した。「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」 朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録され